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ゆきわり草2月号

2023.2.2 園長 永井 洋一


節分の鬼を筆頭に、鬼は常に「悪」と決まっていて、退治されて当たり前の存在と認識されています。しかし近年、その鬼にも鬼社会の家族と生活があることを想像してみる、という視点も必要だとする説が出ています。

例えば物語「桃太郎」の鬼ですが、鬼ヶ島に住んでいるというだけで、特に人間界に悪さをしたという記述がありません。鬼というだけで討たれて当たり前と考えられ、桃太郎は人々の期待を背負って猿、犬、雉を従え鬼ヶ島に乗り込みます。そして桃太郎は期待通り鬼を討ち、故郷に宝物を持ち帰りヒーローになります。

鬼にしてみれば、突然現れた桃太郎に攻撃され全財産を奪われるのですから、これは「侵略」「略奪」といえます。この鬼に家族があったとしたらどうでしょう。孤島でひっそりと暮らしていたのに人間に攻められ一家の大黒柱の命が奪われます。鬼の子どもは孤児になり財産もなくなり、この先どのようにして生きていくのか途方に暮れてしまいます。もしかしたら、人間に強い恨みを持ち、長じて復讐に向かうかもしれません。

私が子どもの頃に見たハリウッド映画の西部劇では、インディアン(現在はネイティブアメリカン)は野蛮で恐ろしい存在でした。白人に襲いかかるインディアンを次々に倒すシーンが映画のハイライトでした。しかし彼らはそもそもアメリカ大陸で穏やかに暮らしていた先住民で、そこに勝手に乗り込んできた欧州からの白人移民たちこそが残虐な侵略者なのでした。インディアン(インド人)という呼称も、大西洋の果てにはインドがあるはずと信じていた欧州人たちの勝手な思い込みからつけられたのでした。

ネット社会になり、人々が自分の価値観に合う情報だけを選択的に入手し、同じ意見のグループ内で意見を先鋭化させて排他的になっていく傾向が指摘される昨今です。「自分の主張」を声高に叫び、その根拠を羅列して立場の異なる相手を屈服させようとする人が増えていくと、ますます「異なる立場」に思いを寄せる力が弱まります。

対立する者どうしはそれぞれに「正論」を押し出します。「普通はそうするもの」「それが常識というもの」「人として当たり前のこと」「それが社会というもの」などなど。「鬼は悪に決まっている」「インディアンは野蛮」という論拠と同じで、主張の根拠に絶対的な正論があると思い込んでいますから、議論には妥協点の見つけようがなく、互いに相手を「非常識」と避難することに終止してしまいます。

こんな傾向が強まる今の世の中ですから、節分で豆をまいた後で「ところで豆を投げつけられて追われた鬼の家族はどうしているんだろうね」と、子どもたちと鬼の立場で話をしてみてください。「鬼はどうして人間の世界に現れたのだろう」「なぜ鬼の世界だけで暮らしていけなかったのだろう」「鬼と人間は仲良くできないのかな」などなど。

鬼も快楽のためだけに人を襲うのではないと思います。食べ物がほしいのか、恨みがあるのか…。園児たちには、頑なに鬼は悪と決めつけるのではなく「なぜこんなことをするのか?」と勇気を出して鬼に問いかけ、問題の所在をつきとめ、互いが幸せになる着地点を見つけるような考え方ができる人間になってほしいと願います。


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